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2016年07月26日

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***            





港川人 ま



  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             











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(以下、引用)


1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/




1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             




基本的に日本本土との違いは小さく地方差程度であることがわかりました。

  今回の再調査で、2010年の論文が見つかりました。しかし知りたいことが半分しか触れられておらず当方にとっては極めて中途半端な論文でした。YAP+度やmt-DNAなどの情報から台湾の影響が南九州にはおよんでいなかったことを証明するための内容なのでY-DNA「D」つまりYAP+度しか報告しておらず、Y-DNA「O2」や「O3」の結果は全くないのです。読みながら全部調べろよ~~と文句を言っていました。しかしこれで1つわかったことは沖縄本島と宮古島は遺伝子的にはほぼ同じであったことと、石垣島はYAP+が九州並みに低いことでした。宮古島と石垣島の間に何かあるようです。

  もうひとつ前からあった情報が、添付の表の下の2行です。北琉球と南琉球に分けた遺伝子調査で出典がわからなかったのですが、やっと見つけました。ところがダウンロードできない学術誌の掲載なので、結局データの真偽はわからずじまいでした。この情報では南琉球のY-DNA「O2b」度は67%と極めて高いのですが、「O2b1」に進化した集団なのか韓半島から直接南下してきた「O2b」のまま進化しなかった集団なのかが全く分からないのです。「破壊する創造者」的には主にY-DNA「D2」との遭遇で「O2b」から「O2b1」に西日本で進化したと欧米の研究者は考えています。南琉球の「O2b」は一体どこから渡ってきたのか?本土からなら「O2b1」のはずですが、韓半島から直接渡ってきたのなら「O2b」のままのはずなのです。これは大問題のはずなのですが、研究者はそのような捉え方はしないようです。困ったものです。



別の記事で対馬海峡と津軽海峡は大陸と陸続きだった可能性は低いが、北方の津軽海峡は氷結し、人が渡れた可能性はあることが示唆されました。では琉球列島はどうだったのでしょうか? 当ブログの他の記事でご紹介した日本第四紀学会のQ&Aに下記の質問をして見ましたところ回答がありましたのでご紹介します。

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質問:

  質問12で「最終氷期には日本列島と大陸間の海峡は完全につながっていたのですか。」という問いがありましたが、 同じく琉球列島孤はどのような状況だったのでしょうか?どこかとつながっていたのでしょうか。

回答:

  最終氷期の海水準低下量と現在の海峡の水深ならびに現在の琉球列島周辺の構造運動(隆起/沈降速度)から考えると、 最終氷期最盛期における琉球列島と中国大陸との接続は考えにくく、また、 慶良間海裂とトカラ構造海峡の陸化についても考えにくいので、 最終氷期における琉球列島と中国大陸および九州との一大陸橋の想定は極めて難しいといえます。 最終氷期における海面低下に伴って、 琉球列島はいくらか陸域を増大させましたが、全体として、 島々から構成されていたものと考えられます。 当時の古地理図を描く際の最終氷期における海水準高度(水深)は約120 m(米倉ほか,2001)が提示されています。 この水深は,東シナ海大陸棚における最終氷期の水深=120±10 m (斎藤,1998)と調和的です。

[参考文献]
斎藤文紀(1998)東シナ海大陸棚における最終氷期の海水準.第四紀研究,37:235-242
米倉伸之・貝塚爽平・野上道男・鎮西清高編(2001)日本の地形1 総説.349p,東京大学出版会

回答者 : 河名俊男
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  最寒冷期でさえも琉球列島周囲の水深は120mもあったそうです。と言うことはオーストラロイド形質とされる3万年前頃の港川人(恐らくY-DNA「C1」)はどうやって海を渡ったのでしょうか?「D2」も行動を共にしていたはずなので、そのうち縄文タイプの化石も発掘されると期待していますが、小舟で漂流し「椰子の実」のように偶然流れ着いただけなら、化石は見つからないでしょう。

  そうなるといつ頃、「D2」「C1」は琉球列島に渡ったのでしょうか?そして何のために。

  伊豆大島で死んだとされた源為朝は琉球へ渡ったという伝説があるくらいなので鎌倉時代ごろに日本本土から「D2」遺伝子が渡ったとも考えられないこともありませんが??でしょう。尚王朝は?わかりません。薩摩支配は?薩摩はむしろ「C3」と考えているので「D2」頻度が50%近くになるほど渡ってくるとは全く考えられません。

  いずれにせよ歴史時代に入ってから「D2」が島に渡ったと言うなら「O2b」もしくは「O2b1」が先住民となります。これも考えにくいです。

  琉球列島弧は島が散在するだけに船で自由に行き来できるようになるまでは孤立していたはずです。さまざまな分野の研究者も沖縄本島を中心とする北琉球と宮古島、石垣島などの南琉球では文化も言葉も異なると言っています。しかし遺伝子的にはきちんと調べグローバルで報告された例は全くないのです。

以上


(以上、引用終わり)
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一般的には中国大陸や台湾など大陸と琉球列島は繋がっていたとして古代史は研究されていますが、「繋がらなかった」とする説も強いのです.「琉球列島は大陸や台湾、日本列島との陸橋はなかった」というものです.ウルマ変動以前からの地殻変動の大きさを捉えれば、やんばる北部は太平洋側から移動してきた陸であるということ、慶良間諸島近辺はかなり大きく西に旋回させられて沈降している件、琉球海溝の深さと沖縄トラフの深さから、大陸と繋がっていなかったと推測されるわけです.もちろん、創始へ遡れば別ですが、その頃は人類は居なかったか、別の生物が居たと考察されるからです.


そして、わが国の遺伝子に関わる材料として、以下を、上記サイトから引用し推察します.

下記により、主に、日本に関わる「C系統」と「D系統」の資質や性質といったものを理解し両者を区分する上で役立ちます.
しかし、港川人の「Y-DNAハプロタイプ」は、『おそらくCであると考えられる』と仮定されているのは、未だ琉球列島のまつわる遺伝子研究は全く報告されていない、と、上記にあったとおりです.
骨格や特徴から、『オーストラリア先住民に近い』とされるも、全く同じではないということになります.

ですから、このあたりから、周辺の(遺伝子集団の情報の)骨格、枠組みを形成しながら、理解をし、推察の助けを得たいと思います.


なお、琉球諸島の「弥生遺伝子O」と、「縄文遺伝子D」について、「O」の推察が、以前のまとめ中『シルミチュー・アマミキヨ 朝鮮半島由来説』に紹介したとおり、沖縄にも現在残る『港川人の面影を残す顔相』と比較して、やはり、「弥生人由来O」は渡来系の育んだ歴史における産物だと認識できますが、

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             

この「弥生人は沖縄で形成されたのか」という、他サイトなどにみられる情報については、これまでのまとめ通り、『弥生人は渡来してたのであろう』という推測に、いまのところ変わりはありません.やはり、
日本列島から沖縄諸島にかける縄文人にかけ合わさった/ 縄文人より色の白い/ 体毛が少なく薄い/ 重心が高い、などといった特徴が残されているのは、後天的な変異であろうとするものです.









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30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-12.htm



30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」



  
8. 縄文の技術者・ハンター集団Y-DNA「C1」,「C3a」も「D2」同様ネグリート(倭人)の子孫

  
  さてY-DNA「D」と一緒に行動をしたらしいY-DNA「C」はどんな集団だったのでしょうか?Y-DNA「C1」は既に日本人の中に混じり、オリジナルの姿を想像するのは不可能ですが、極く近い兄弟遺伝子Y-DNA「C2」100%のLani族の集団が西ニューギニアに存在しています。この集団からより古い「C1」のオリジナルの姿は容易に再現できます。

  左図はガイドのJahoda Pe-trさんの観光用の写真です、この集団は褐色の肌色です。日本人でもいくらでもいる色黒タイプです。また陽に焼け易い人は夏の定番のやや濃い目の小麦色です。

  右図はLani Singersが2010年9月にポーランドのフェスティバルに参加した時の写真です

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             




Y-DNA「C」は「DE」と同時に出アフリカし中東で既に高緯度地適応し白人のような肌の色をしたネアンデルタール人と遭遇しましたが、交配しなかったのが「DE」で「D」と「E」に分化後も現代までオリジナルのジャガイモ顔と黒い肌色を保っていますが、「C」は交配を行い、100%Y-DNA「C2」のLani族はY-DNA「D*」100%のJawara族やOnge族とは全く異なる肌色・風貌になっています。

  したがって日本列島に上陸したY-DNA「C1」も当然この部族のような感じだったはずです。実は当方が新入社員時代の新人研修先の製造部の課長は一番右の歌手と瓜二つでした、ただし肌の色は普通の日本人の肌の色でしたが、見事な縮れ毛でした。先ずまちがいなく「C1」遺伝子だったと思います。このような「いかつい」ソース顔立ちは欧米に多く見られ、日本でもわりと良く見かけるので日本人の遺伝子として定着していることがうかがえます。ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスが交配した当時の顔立ちなのでしょう。

  この写真ではLani族はがっちりした大柄のように感じますが、白人と並んだ写真を見ると実は小柄であることが解ります。初期の現代人はアウストラロピテクス以来140cm~150cmと小柄だったのです。しかし「魏志倭人伝」のころの現代人は背が伸び、「D2」や「C1」は「倭人」と呼ばれるほど小柄な存在になっていました。

  日本民族の遺伝子に含まれるY-DNA「C」のもう一つのタイプ「C3」はどんなでしょうか?「C3」はナウマン象ハンター(マンモスも狩猟したかもしれません)だったと言われています。「C1」が「D2」と行動を共にし日本列島半島部を北上しブラキストン線(津軽海峡)で行く手を阻まれ、定着したのに対し、「C3」はユーラシア大陸の内陸に入りシベリヤに進出をした様です。その頃はまだ温暖でナウマン象が生きており、「C3」はナウマン象ハンターだったと考えられているようです。その後のシベリヤ大地の寒冷化・ツンドラ化に耐え北方アジア民族として生きてきました。ツングース系、モンゴル系など言語は複数の体系にまたがります。最も有名なのはジンギスカンです。

  さて調査した結果100%の「C3」集団は存在せず。しかも寒冷化したツンドラ・シベリヤで寒冷地対応してしまったため、日本列島に渡ってきた当時のオリジナルの「C3」はもはや想像は不可能です。日本に渡ってきた「C3」が寒冷地対応する前なのか、まだナウマン象が生きていた寒冷地化する前なのかは定かではありませんが、日本の研究者は野尻湖にナウマン象の化石がでることから陸続きだった日本列島にナウマン象が生きていたころに「C3」はきたのだろうと考えているようですが、恐らくその通りではないかと考えられます。

  いったん狩猟採集民としてシベリヤ大地に定着したハンター「C3」はシベリヤ大地の寒冷化にともない温暖気候を求めて南下したナウマン象を追って陸続きだった日本列島部分まで下がってきたようです。このため北上した「C1」が北日本にも多く分布するのに対し「C3」は韓半島から降りてきた九州に多いようです。

  日本人は「C3」の中で最も古い「C3a」です。したがって最も近いのは「C3b」になります。ナウマン象ハンターの「C3」はシベリアのツンドラ化に伴い南下した日本部隊と残留し寒冷地適応した集団だけでなく更に北方に進み陸続きのベーリング海峡を越えましたが、北アメリカ大陸に渡った「C3b」のネイティブ・アメリカンが日本の「C3a」遺伝子に最も近いことになります。ナデネ語族やアルゴンキン語族に「C3b」遺伝子が維持されていますが、南北アメリカ大陸は圧倒的なY-DNA「Q」遺伝子地帯なので「C3b」の頻度は低く、一般的なネイティブアメリカンの姿は「Q」になるため「C3b」の姿を見つけることは不可能です。

  ちなみに、後に北海道に進出した寒冷地適応を遂げたオホーツク文化のニヴフ族(ギリヤーク族)は「C3c」になるようです。「C3c」は「C3」の中で最も人口が多くツングース族やモンゴル族などヨーロッパまでのユーラシアの広大な範囲に分布しています。最も拡大した時期は元帝国時代で、いわゆるジンギスカン遺伝子と呼ばれている中央アジア最大の遺伝子です。

  縄文人の主力はY-DNA「D2」ですが、Y-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族を見ても高度な技術や文化を持ってはいませんでした(では誰が高度な土器製作を行っていたのでしょうか?)。比較的単純な狩猟採集を行う集団だったようです。しかも現代でも無精子症や乏精子症の男性頻度がかなり高く人口増殖率が低いにも関わらず、男性人口の40%の頻度を保ってこられた理由はまだ解明できてはいません。言えることは1万年以上に渡る縄文時代の間に日本列島はY-DNA「D」の土地になっていたはずです。

  しかし「O3」支配層の意向を受けた某高名な学者は縄文文化を矮小化するために縄文人の人口は極めて低かったと大々的に啓蒙活動を行ってきました。日本人の人口が大きく増えたのは戦国時代を過ぎて安定期に入ってからです。徳川政権化でその中が安定し支配層の中心の武家「O3」が増え始め、大多数の縄文系、農耕を支える程度の弥生系に、戦争に明け暮れていた限られた人口の「O3」の人口構成だったと考えられます。

  特に第二次大戦後の圧倒的なベビーブームで、中国の人口増を見てもわかるように圧倒的な人口増殖率を誇る「O3」が増え、とうとう日本人男性の約20%を占めるまで増殖したのです。つまり支配層の「O3」というより明治維新の廃藩置県で失業し一般層に落ちていた「O3」が圧倒的に増えたと考えられます。また戦争に駆り出され戦死した多くは非支配層として虐げられてきた縄文系一般人です。これは非支配層の人口に占める縄文系の頻度が極めて高かったためですが、これで縄文系の人口比率は減ったと考えられます。

  弥生時代に日本列島に入ってきた弥生人「O2」と「O1」は先端農耕技術を持つ農民として、狩猟採集先住民だった縄文人と棲み分けをしながらある程度友好的に土着化したようです。もしアンダマン諸島のY-DNA「D*」のようにY-DNA「D2」縄文人が弥生人を殲滅するか排斥をしていたなら農耕文化はここまで定着してこなかったと思われます。農耕文化は日本列島上陸後意外な早さで青森まで広まったのは、先住の縄文人が受け入れたからです。長江を追われた弥生人たちは吹き溜まりの日本列島に落ちのび、これ以上逃げる先がないことをわかっておりしかも農耕に適した気候風土だと理解したため、縄文人が受け入れられるように友好的に共存するやり方を取ったと思われます。

  これは神武天皇と称する韓半島から追い出された集団で武力で日本列島制圧を行った武闘派遺伝子集団「O3」との大きな違いです。「O3」の武力に訴える行動パターンはヨーロッパで戦争に明け暮れたY-DNA「R1b」とそっくりです。結局現在世界を動かしているのはその武闘派遺伝子のY-DNA「R1b」と「O3」なのですが。

  また脱線をしましたが、では縄文土器などにみられる縄文人の技術力は何処から来たのでしょうか?

  残念ながらY-DNA「D2」ではないでしょう。出アフリカ以来「D」と行動を共にしてきたようだと欧米の研究者から見られているY-DNA「C」と思われます。Y-DNA「C」は恐らくインド亜大陸からスンダランドへ移動する間に「C1」~「C5」に分化しました(「C6」もあると報告されています)。

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             
 「C2」は現在の西ニューギニアに定着し、「C4」はオーストラリアのアボリオジニーになりました。「C2」も「C4」も子孫は現在オーストラロイドと呼ばれています。Y-DNA「C」は基本的にオーストラロイドの祖先に間違いありません。オーストラロイドの祖先は近海でマグロなどの深海性の魚類まで釣っていたほど海事技術力が高かったことが昨年末のサイエンスに報告されました。写真はY-DNA「C2」100%のLani族です。ペインティングで鯨面をしています。右側の男性はLani Singersの歌手です。日本でも沿岸部の漁労民系に良く見かける風貌です。顔写真だけだと大柄そうな感じがしますが、彼らも見事にネグリートなのです。



(以上引用終わり)

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この時点で確認でき、思うのが、『港川人はやはり海洋民族だった』というものです.そうすると、謎の、『洋族』なるものの一文が気にかかりますね、以前のまとめから引用.


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史郎さん
http://smcb.jp/column/detail/1488320/



日本の 成り立ち ― 古代史は おもしろい ―





1,太平洋に 今は無きムー大陸がありました。
  そこでは、比較的高度の文明が 発達していたと思われます。
  この文明を育んだ人種を 『 洋族 』 とします。



  ムー大陸は、或る時突然に沈没し始めました。
  『 洋族 』 はこれに驚き 故地を離れ 華北平原に四散し、さらに
  その周辺部に拡散しました。 一万七千年ほど前のことです。
  沖縄県では 同時代の旧石器時代の人骨化石(港川人)が発見
  されている。




2,『 洋族 』 はムー大陸から列島にも渡来し、南九州の高千穂国の
  成立に影響を及ぼしました。
  後に高千穂国は、天御中主之神,高皇産霊神,天照大御神
  等の 偉人を生みました。 紀元前 十世紀頃のことです。




3,中国大陸で 『 洋族 』 は 殷国を樹立しました。
  殷(いん・紀元前 十七世紀頃~紀元前1046年)
  ・・・以後 異民族との攻防が 繰り返されました。
  また周辺部では 北方系民族に遭遇し 一部は渤海湾を迂回して
  半島に至り、一部は西海を超えて列島に到達しました。



『 洋族 』 は、ムー大陸の深層を記憶に留めたものと思われま
  す。
  そして半島を南下する 『 洋族 』 と  
  西海を渡って列島に至った 『 洋族 』 がそれぞれいました。


  また、中国大陸では 『 漢族 』 が主部を占めるに至ったのです。




4,中国は、春秋戦国の時代を経て、前221年に統一されました。

  秦の始皇帝との 覇権を賭けた戦争に 破れた 『 倭族』 の
 【 徐福集団 】 は東アジアに脱出し、『 洋族』 や古朝鮮系列の
 『 旧午族』 も住む 列島,半島に分かれて定着しました。
  紀元前200年頃のことです。
  前者が 『 倭本族』 であり、後者が 『 倭支族』 です。


(以上一部引用終わり)
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(以下引用)

14-1. オーストラリア先住民は人類最初の冒険家か?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/14-1.htm



14-1. オーストラリア先住民は人類最初の冒険家か?




  Scienceの9月号にオーストらリアのアボリジニ(先住民)に関する研究が発表されました。「BioQuick」ニュースの日本語訳も転載します。

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Aboriginal Genome Shows Two-Wave Settlement of Asia Ann Gibbons Abstract  Almost a century ago, British anthropologist Alfred Cort Haddon traveled the world seeking samples of human hair, among other curios, for his ethnographic studies of native people. The samples, which lay in a museum drawer for 90 years, included hair from a young Australian Aboriginal man. Now in a paper published online this week in Science, geneticists report that they have extracted enough DNA from that hair to sequence the first complete genome of an Aboriginal. The genome offers the first good look at the origins of Aboriginals, showing that they are one of the oldest continuous populations outside of Africa, the authors say.
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人類最初の冒険家はアボリジニの先祖/遺伝子解析から判明

     オーストラリアの先住民アボリジニの遺伝子を解析する国際研究チームが驚くべき結果を発表した。2011年9月22日号のScience誌に掲載された記事によれば、人類の先史時代の理解を変えるものとなっている。遺伝子の解析に基づき、研究チームはアボリジニの祖先は人類がアジアに広がって行った初期の頃である70,000年前に遡る事ができ、少なくとも24,000年前には現在のヨーロッパやアジア全域に分布した事を立証した。

  この事実が示すところは、現在のアボリジニは50,000年も以前に最初にオーストラリア大陸に移り住んだ人類の直系の子孫であるという事だ。本研究プロジェクトは、20世紀初頭に、西オーストラリア州ゴールドフィールド地域に住むアボリジニの男性から英国の人類学者に寄贈された髪の毛の束に端を発する。それから100年経た今、研究チームはその髪の毛の束からDNAを抽出単離し、最初のオーストラリア人の遺伝子解析と太古の人類がどのように地球上の各地に移り住んだのかの研究に活用する事となった。このDNAからは、近代のヨーロッパ系オーストラリア人特有の遺伝情報が含まれていない事から、このアボリジニ男性の祖先が、現在の他の人種の64,000-75,000年前の祖先から分化した事が明らかとなった。よって、アボリジニは現在の探検家の「はしり」とも言え、その昔アジアに移住し50,000年にオーストラリアに辿りついた人種を、直接の祖先とする。つまりアボリジニは彼らが今日居住する地帯に最も長い歴史を有している事となる。

  この研究により明らかな事は、ゴールドフィールズとシーカウンシルの2地域はアボリジニが歴史的にオーナーであった事が証明されたことである。アボリジニの歴史は、アフリカから発祥した最初の人類がどのように広がって行ったかを理解する為の重要なカギとなる。考古学的検証によればオーストラリアに現生人類が現れたのは50,000年前であるが、本研究によればそれに至った歴史は異なったものと考えられる。 これまで最も広く認められている見解では現生人類の祖先はアフリカにのみ発祥が遡り、そこからヨーロッパ、アジア、オーストラリアへと移住していったと考えられていた。そのモデルによれば、最初のオーストラリア人(アボリジニ)はヨーロッパの祖先から分化したアジア人種から更に分化した事になる。

  しかしながら本研究によれば、アボリジニの祖先が冒険の旅を開始した頃はまだアジア人とヨーロッパ人の祖先は、まだ分化していなかった。アボリジニの祖先が冒険の旅を開始して24,000年程経てから、アジア人種やその他少数人種と混合するようになった。研究チームを率いるコペンハーゲン大学のEske Willerslev教授は「アボリジニの祖先は人類最初の冒険家なのです。ヨーロッパ人やアジア人の祖先がまだ冒険の旅に出ずアフリカや中東のどこかで留まっていた頃、アボリジニの祖先は既に遠くまで広がっていたのです。未知の地域であったアジアを横断し、海を渡ってオーストラリアに上陸したのが、最初の現生人類なのです。本当に驚くべき冒険で、類稀なるサバイバル知識と勇敢さを持ち合わせていたのでしょう。」と説明する。本研究は現生人類の祖先がどのように世界の各地へ移動していったかを理解するのに大変役に立つであろう。古代の骨や歯に典型的に生じる、現生人類の遺伝子コンタミのようなリスクを犯さず、遺伝子解析を行なうには保存された髪の毛サンプルの条件はそれ程よくはなかったが、なんとか古代の人類の遺伝子のみが得られたと研究チームは述懐する。

  博物館の収集品の解析と他グループとの共同研究によって、世界各地の多くの先住民が有する系統の歴史が、例え彼らが近年居住地を変えたり民族的に融合が進んだりしても、追跡調査が出来るようになったのである。「この研究は遺伝人類学者や分子生物学者に大変興味深いものです。そして人類がどのように世界の各地に移動して行ったのかを研究する事が出来るのです。遺伝子配列解析技術とバイオインフォマティクスがこれから更に発展し、種の起源の謎、人類の進化と移動や系統を解明する為のヒトゲノム研究を加速する突破口となるでしょう。」と本研究のもう一人のリーダーでありBGI(北京遺伝子研究所)研究所長であるユン・ワン教授は語る。
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  しかしオーストラリアのアボリジニはY-DNA「C4」であり、出アフリカしたY-DNA「DE」と「CF」の「CF」から分化したハプロタイプなので「C4」よりわが日本独自の「C1」の方がもっと古く歴史があります。またオーストラリアに50000年前には人類が到達していたことは前からわかっていたことで、とりたて目新しい報告ではありません。この研究者はY-DNA「C1」のことを良く知らないようです。困ったものです。何が?掲載に値したのかよくわからない内容でした。残念ながらY-DNA遺伝子解析と日本列島の遺伝子分化を考慮に入れていないかなり独善的な論文で先入観なしに読んでも疑問?だらけの報告でした。政治的なにおいがします。

  しかし50000年前にY-DNA「C4」がオーストラリアに既に到達していたことが再確認できたということは、スンダランドから陸続きではなかったオーストラリア-ニュージーランドの大陸サフールランドに当時小舟で渡ることができる技術が充分にあった、と言うことが改めて確認できたことになります。

  このことは当然もっと古い亜型のY-DNA「C1」は当然同じころに旧石器時代の日本列島に到達していたと考えても不自然ではないのです。ということはY-DNA「C」と行動を共にしていたと考えられているY-DNA「D」も当然日本列島に旧石器時代人として渡ってきていたと考えられます。つまりY-DNA「D2」は縄文人の主遺伝子というだけではなく、旧石器時代人の主遺伝子の可能性も充分あるのです。つまり日本列島にはオーストラリアと同じく旧石器時代から同じ遺伝子集団が50000万年近く住み続けている可能性があるのです。ここで問題は、ではどの遺伝子集団が土器を発明もしくは持ち込んだのか?という点です。答えはまだ全くありません。

  日本人はチベット人やアンダマン諸島先住民を除くいわゆるアジア人と全く異なる遺伝子履歴があり、それほど古い石器・縄文の古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D2」、「C1a」、「C3a」の基層の上に弥生・渡来の新興アジア遺伝子のY-DNA「O1a」、「O2a」、「O2b」、「O3a」遺伝子が複層的に交配した世界でも特殊な民族集団なのです。日本人の行動様式は出アフリカした現代人類の祖先/古代シーラカンス遺伝子が持っていた行動様式を今でも文化の基層に持っている特殊な民族集団です。特に田舎の精神・風土は古代遺伝子文化そのものです。

  今後の旧石器時代の発掘に期待しましょう。


(以上引用終わり)
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上記のことから推測しても、古代日本に強く影響し、現在も謎が残る「C系統のC1」や港川人、そして『洋族』とされる者、これらがどうも抜けているとしか思えなくなってきました.抜けているというか、なにかを隠しているのでは?とおもわれる節も、なくもありません.、というのは本記事上部にあるように、

『しかし遺伝子的にはきちんと調べグローバルで報告された例は全くないのです。』
1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


そして、港川人についても情報がこれ以上探せない? こと.  




などです.

研究がなされていないのか出来ないのか公表できないのかでしょうか?

資料の中にありましたが、港川人の遺骨は本土の大学院に行ったまま帰ってきていなかった期間が長かったようで巣ね.その間に、琉球大学でも、「早く沖縄へ返されるべきだと」いう意見がまとめられていたようですね、現在は、南城市で見ることが出来るでしょうか? 


  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             
港川人のあごの骨、接着剤で固定された頭骨全体の様相が、近年、修正され、あごが当初の想定よりももっと細いことがわかった.その修正前と後の港川人頭骨写真.



  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             
当初は本土縄文人の様相を参考に、左の図と模型を展開させていた.現在も八重瀬町立具志頭(ぐしちゃん)歴史民俗資料館にはこの図をモデルにしている.その多くの場もこの図を元に港川人を紹介している現状だが、再研究後は右図であると発表された.沖縄人特有の顔相、特徴を持っているとみられる.



出アフリカ以前に出自はあったのかどうかが、ますます気になってきています.そして



伝説のムー大陸やアトランティス大陸はほんとうにあったのか、ということに行き着きますね、レムリア大陸も、ですね.


これには諸説あって、「ほんとうはなかったという説」、「他の星にあった説」「ムーとレムリアは同じ説」「ムーとレムリアは別説」など、探せばきりが無いような、それでいてもうオカルトの域、です.なぜかというと、証拠が揃わないからで、『いい伝え』と『物理的証拠』と『スピリチュアル・心霊領域』が一致しなければ、ただの妄想となってしまいます.あるいは、人々を妄信させて妄進させる種となりうるからです.ただ書いてあるにしてもほんとうの年代と、捏造と、事実確認を世界中で整合せねばならなくなるのです.



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(上記引用、続き)


30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-12.htm



 Y-DNA「F」の分化の地のインド人は意外に小柄なように古代シーラカンス遺伝子はアウストラロピテクスから継続しているネグリート体質を見事に維持しています(若干背は伸びていますが)。食糧事情が良くなるにつれてネアンデルタール人から受け継いだ大柄な形質が発現するようになり、穀物食だった日本人は戦後肉をかなり食べるようになったことで、肉食で大柄になったネアンデルタール人の形質が発現されるようになりました。それでも強固な縄文形質はまだ維持されており、縄文度の高い小柄な日本人の割合はかなりまだ高いのです。

  「C1」はなんと日本列島のみに存在し、特に徳島、青森、沖縄などに多めに残っています。「C1」は恐らく琉球列島で発見されるオーストラロイド似の人骨の遺伝子と思われ、上の「C2」の写真のように日本列島に時々みかけるオーストラロイド風形質(彫が深くややいかつい風貌のソース顔)の遺伝子と考えてまちがいないでしょう。これは前述のネアンデルタール人から受け継いだ形質そのものです。「D2」とともに日本列島に上陸したものと考えられます。貝文土器の製作技術集団で海の民でもあったようです。日本各地に残る捕鯨基地など海洋性の伝統はこのY-DNA「C1」の子孫が伝えた文化ではないかと思われます。「C」そのもは本来基本的に海事関連技術者・ハンターの集団だったと思われます。

  「C3」はやや様子が異なります。恐らく「C3」は「D2」、「C1」と共に日本列島に入らず、「D2」の一部と共に更に北上し「D2」が間宮海峡を渡りサハリンを南下し宗谷海峡を渡り北海道に定着をしたのに対し、そのまま黒竜江の沿岸部分に住みつき「C3a」に分化したようです。「C1」が海のハンターになったのに対し「C3」は陸の大型動物のハンターになったようです。恐らくマンモスやナウマンゾウも追っていたと考えられます。シベリア大地のツンドラ化・寒冷化の洗礼を受けた「C3a」は、南下する動物を追って日本列島に上陸したと考えられます。完全な寒冷地適応は受けていませんが、若干顔の凹凸が減り、今風でいうなら端正な顔立ちのしょうゆ顔のイケメンになっていたと思われます。

  そして南下した集団だけでなく思い切って新天地を求めて陸橋化していたベーリング海峡を渡り「出シベリア」を決行しアメリカ大陸に渡った集団はY-DNA「C3b」に分化しました。この集団の子孫は北米ネイティブアメリカン(旧アメリカインディアン)に組み込まれています。

  Y-DNA「C3a」はたぐいまれなる土器製作集団でもあり、大型動物の肉を煮炊きするために高度な縄文土器を開発したようです。恐らく日本列島に南下する前に土器製作技術は完成していたと思われ、中米で見つかっている縄文土器に似た土器の製作者は出シベリアしたY-DNA「C3b」と考えて差し支えないでしょう。残念ながら北米アメリカインディアンには「C3b」100%の集団はなく完全にY-DNA「Q1」に取り込まれてしまったため縄文土器製作技術は残らなかったようです。

  青森県で見つかる火焔土器は恐らく「C1」「C3」の技術の結晶と考えられますが、技術者集団にこの呪術性は不要だったはずです。呪術性を求めたのは需要者だった「D2」だと考えられます。金属加工技術など持たない「D2」は土器に呪術性を求めたのだと思われます。

  Y-DNA「C3a」の元々の風貌を推し量るのはやや無理があります、「C3b」の最大頻度を持つミネソタ州のChippewa族でも44%しかなく基本遺伝子はY-DNA「Q1a」のためだからです。日本でもやや標高の高い農村地帯に意外に彫の深い端正は顔立ちを見かけますが、恐らく「C3a」と思われます。昔の書物には山村部では過酷な労働と強い日差しなど厳しい条件下で肌色が濃くなり、彫の深い人が多いと書いてありましたが、ここまで遺伝子の研究が進むと明らかに間違いで、もともと彫の深く褐色肌で陸のハンター集団だったY-DNA「C3a」遺伝子集団が山村部に多かったからなのです。いずれにせよ、Y-DNA「C」遺伝子の風貌は鼻が高めで彫が深目な点で共通し、つまり日本人男性のイケメンの起源はY-DNA「C」なのです。



続き; 遺伝子調査から追うY-DNA「C1a」はオーストラロイド

  今朝の朝日新聞に石垣島の白保竿根田原洞穴からこれまでの20000年前より更に古い国内最古の24000年前頃の人骨が発掘された、というニュースがありました。

   旧石器時代の人骨として最も有名な港川人も沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)で見つかっており、全て琉球列島の遺跡という驚くべきことですが、骨が残りやすい土壌のようです。そこで港川人を遺伝子調査から再考してみました。

  まず当ブログのガラパゴス史観の復習をしましょう。

  縄文人(正しくは石器-縄文人)には3遺伝子あり、
●Y-DNA「D2」;現日本人のY-DNAの実に41%を占め、男一匹5尺(=150cm)の体と形容されたネグリート体質を持つ小柄なジャガイモ顔日本人の基盤、日本人男性の人口が約6200万人なので、[D2」は約2500万人もいますが都市部以外では圧倒的に多いと思います。
●Y-DNA「C1a」: 4% 約250万人、やはり小柄なオーストラロイド系と、
●Y-DNA「C3a]; 3% 約180万人、やはり小柄で弱寒冷地適した北米ネイティブ・アメリカン似、

  合計日本人男性の実に48%も占める田舎的な親切な日本人気質の源になった遺伝子です。そして3遺伝子とも出アフリカ当時に近い古代性を残したシーラカンス遺伝子そのものなのです。田舎独特のホスピタリティはこの石器-縄文人から受け継ぐ古代気質そのものなのです。これらの遺伝子集団の草創期の遺跡は海面上昇後の大陸棚に大部分が沈んでおり草創期の文化の構築は難しいものがあります。もし沿岸大陸棚の研究が進めば縄文時代の草創期は14000年前ごろとされる今よりもっと遡る可能性が極めて大なのです。

  50000年前ごろにはオーストラロイド(Y-DNA「C2」、「C4」)は既にスンダランドと海で分離していたサフール大陸(オーストラリア/ニューギニア大陸)に上陸していたことが明らかになっています。渡海技術が50000年前ごろには既にあったのです。ということは、当然陸続きだった日本列島部分に同じ頃にオーストラロイドより古いY-DNA「C1」が住みついていたとしても至極当然のことでしょう。ということは、「C」と行動を共にしていたとされる「D」も一緒に住み着いたはずです。といっても、住みついたのは今は海面下に沈んだ120m下の大陸棚部分のはずですが。つまり、50000年前頃には遅くても20000年前頃には日本列島部分にY-DNA「D」「C」は定住していた可能性は極めて大です。

  今まで縄文人顔とされてきたのは典型的なY-DNA「D2」のジャガイモ顔です。ところが16000~18000年前頃(旧石器時代最晩期から縄文時代草創期)のとされる港川人の顔は最近の再調査で下記の記事のように完全にオーストラロイド顔と判明したそうです。これはY-DNA「C1」はY-DNA「C2」100%の西ニューギニアのLani族(オーストラロイド)に似ていたはずだという当ガラパゴス史観と完全に一致します。そして沿岸狩猟採集系遺伝子集団で、貝文土器など土器の製作集団だったのです。

  一方、Y-DNA「C3a」は日本列島に立ち寄らずY-DNA「D1」「D2」などと一緒に日本海北岸を北上し「D2」はサハリンから南下して北海道に入り原アイヌ人となったのに対し、「C3a」は更に北に進み寒冷化しつつあるシベリアでやや寒冷地適応しごつごつした凹凸が減りオーストラロイドのいかつい彫深顔から「C3b」の北米ネイティブアメリカン(旧アメリカインディアン)のような端正な彫深顔に変わっており、ナウマン象のような大型獣ハンターとなり、寒冷化による大型獣の南下を追って恐らく韓半島から日本列島に入り獣肉の煮炊き用の土器を列島に持ち込み「C1a」とともに土器製作遺伝子集団として特異な地位を占めてきたものと思われます。大型獣ハンターであったため沿岸系の「C1」とは異なり、猟師・山村系集団にもなったはずです。

  欧米の研究者によれば「C」は大多数派の「D」とは出アフリカ以来行動を共にしていたはずなので、互いに共存することは日常の普通のことだったはずです。しかし「C1a」も「C3a」も人口的には小さな集団であったため、縄文人と言えば「D2」に代表され、「D2」文化が縄文文化であり「D2」語が縄文語=日本語の原型

  と言っても差し支えないでしょう。   それでは2010年6月28日asahi.comの港川人の記事から復習をしましょう。



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  港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

  新しい研究をもとに、国立科学博物館が作り直した港川人の復元図(右図)

  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             


左図は国立科学博物館に展示されている港川人の復元像。縄文人の祖先と考えられたので、日本人の雰囲気だ。沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔立ちの復元図=写真上、科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=から大きく変わり、オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。



  ‘*琉球列島のY-DNA遺伝子構成|港川人まとめ’ ***             
  上の左図の縄文人は眠そうな目ですが、本来の「D」はこの左図のアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族のようなジャガイモ顔でパッチリした目の鋭い二重だったはずです。そして本来の「C1」は右図の西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族のような奥目のいかつい彫深顔だったはずです。どちらも今の日本人に時おり見かける顔です。しかも当然のことながら古代遺伝子集団や先住民に特有の見事な鯨面です。これが大人のY-DNA「D2」縄文人と「C1」縄文人のオリジナルの顔の現代版なのです。国立博物館の復元像は不十分な復元です。鯨面にした方が良いですね。古代人の特徴をあらわすからです。「C3a」は100%「C3」の遺伝子集団がいないため推測は難しいですが、寒冷化したシベリアで弱寒冷地適応をしているため「C2」のLani族よりはもう少し凹凸が減り「C3b」の北アメリカのネイティヴ・アメリカンに似た端正なイケメン風貌だったと考えられます。



  港川人は1967~76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5~9体分の人骨と考えられ、出土地層は約2万年前と推定されている。全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない。 顔の彫りが深く、手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、縄文人の祖先は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合して日本人が形成されたと考えられてきた。科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、その一環として港川人を再調査してきた。


  CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。


  縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。



  これは正確には正しくありません、縄文男性は前述のように「D2」「C1a」と「C3a」の3タイプのみ。全国に分布するのが圧倒的多数の「D2」、日本列島部分を北上した「D2」と一緒に北上したため青森など北に多く分布するのが「C1a」、大型獣を追って韓半島経由で南下してきたため九州や西日本に多いのが「C3a」。一方女性は民族性を持たないことや、Y-DNA「D」「C」が出アフリカ後移動途中のインド亜大陸や、スンダランドや東シナ海-黄海ランドなどで巡り合ったmtDNA遺伝子の女性が集団にその都度新たに加わるためmtDNAの調査でも男性より種類がやや多い遺伝子構成になっていますが、多様と言うほど多くはありません。「多様」と言う言葉は慎重に使ってほしいと思います。

  新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。(渡辺延志)

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では石垣島の白保竿根田原洞穴の20000年前~24000年前頃の旧石器時代人ははたして「C1a」か「D2」かどちらでしょうか?「D2」「C1a」は一緒に行動しスンダランドから北上し津軽海峡を渡れず青森に留まり住みついたため、現在の日本人でも青森県で「C1a」の出現頻度が高くなっています。石垣島でも当然「D2」がいたはずです。現在の琉球列島は本土より「D2」頻度が高いのです。しかし「C1a」の頻度も「C3a」の頻度も本土平均とほとんど同じなのです。その代わり弥生遺伝子の「O2」頻度が本土よりも低いのです。つまり縄文度は本土より琉球列島(南琉球は除く)の方が高いのです。沿岸採集系遺伝子だった「C1a」の方が骨が残りやすい土壌の土地にいたから残ったはずです。よく発掘をすれば本土と同じ「D2」系縄文人の人骨も出てくる可能性が大です。南の東シナ海-黄海ランドから北上したため、南ほど古い人骨が出るはずなのです。

以上



(以上引用終わり)
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もしも、出アフリカ以前の出自があるとしたら、?






つづきは次で流れ星キラキラ 







保田利 『Indigo Waltz』

































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Posted by ○O〇L mikirleie at 10:22│Comments(0)輝li 輝rLI 
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