2016年07月27日
弥生人の全容 2|港川人まとめ’* * **
港川人 まとめ
弥生人の全容 2
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(以下引用)
日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-17.htm
30-17. 弥生水田稲作農耕遺伝子Y-DNA「O2b」,「O2b1」
rev.3.弥生文化は多様だったのだろうか? 2014年8月25日朝日新聞
水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだのは、長江下流で水田稲作技術を興しながらも黄河系Y-DNA「O3」との中原での勢力争いに負けて拡張する「O3」に 長江流域から追い出されたY-DNA「O2a」(Y-DNA「O1a」も含む)から分化したY-DNA「O2b」である。
このY-DNA「O2a」は越民と思われ長江下流域から南北に逃げ、東南アジアに逃げた集団は広範囲に拡がりインド亜大陸に深く入り込み水田稲作農耕をもたらし、 インドアーリアン集団やドラヴィダ集団の中でオーストロアジア語族として今日まで生き残っている。
特にドラヴィダ民族の中に入り込んだ部族集団は水田稲作農耕文化の語彙を現代にまで保持し、学習院大学の大野教授がドラヴィダ民族の中のタミール語が 日本語の祖先であるとの当時衝撃的な学説を発表する間違いを行った原因になりました。
その後Y-DNA「O2a」集団は特に越民として現代でも華南やヴェトナムなど東南アジアに多く分布している。
一方北へ逃げた集団は現在の満州付近まで北上したようです。満州を北限としてY-DNA「O2b」の出現頻度が高いことから、満州辺りでY-DNA「O2b」に 分化したのではないかと欧米の研究者は考えているが、
満州で分化する大きな要因が特に無いことから(長江下流域に較べると寒冷な気候は分化要因になり得ますが、時系列を見ると満州に長期間留まってから 日本列島に南下したのではないことから分化はその前にしていたと考えられます)、
恐らく長江下流域に居住していた頃から越に対応する呉として分化しており呉民集団を形成していたのではないかと考えられます。この方が呉越が激しく対立していた理由が理解し易いです。
日本に漢字が持ち込まれた当時の唐音以外に何故呉音の発音が存在するのかは、渡来した稲作農耕民は呉民だったと考えると納得が出来ます。
呉越が激しく対立していたと言うことは捕虜となった越民Y-DNA「O2a」や更に前に長江河口域から追い出された楚民と思われるY-DNA「O1a」も呉民の中に混じっていたと考えられ、 日本列島に少数存在する「O2a」や「O1a」は「O2b」と一緒に渡って来たのかもしれません。
Y-DNA「O2b」は稲作適地を求め朝鮮半島を南下し朝鮮半島南部に弥生文化と同じ稲作農耕文化圏を構築し、更に耕作適地を求めボートピープルのように小集団で小刻みに日本列島に移動し、
先住民だった縄文人、多数派のY-DNA「D2」(恐らく海洋系「C1a1」及び内陸系「C2a」の中にも)の中に入り込み、 圧倒的な農耕技術で住む場所を確保し棲み分けて行ったのではないかと考えられます。
日本列島に渡ってきたY-DNA「O2b」遺伝子集団(恐らく呉民)は圧倒的多数派の縄文人Y-DNA「D2」と交配しY-DNA「O2b1」に分化していったものと考えられます。 欧米の研究者は西日本で分化したと考えているようです。
小さな集団で海を渡ってきたため多数派の縄文人と対立を避けるため、稲作農耕による食糧供給担当として重宝され少しづつ勢力を拡大し、 日本列島を稲作農耕文化圏に変えていったものと思われます。
この米作りを後押ししたのは、恐らく更に後から日本列島に武装侵攻集団として渡ってきたY-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族だったのではないかと思われます。
もともとプロト漢民族だったY-DNA「O3」武装集団は朝鮮半島の中華王朝の出先機関にいた頃から食糧米の重要性を認識しており、 渡った日本列島に稲作農耕民が先住民族として既に定着していたのを食糧供給源として上手く利用したようです。
では本題で何故、弥生文化は多様だったのでしょうか?
当ガラパゴス史観は、弥生文化が多様だったのではなく、受け入れた縄文文化が多様だったのではないかと考えています。 日本列島で1万年以上熟成された縄文文化は地域間の移動や交流がありつつ地域独特の文化が形成・根付いていたのではないかと思われます。
蝦夷しかいなかった後進地と考えられた青森で三内丸山遺跡が発掘されたことで縄文時代観は一気に変わったように、 縄文時代は多様な地域性を持つ地域文化集合だったと考えられます。
従って稲作農耕文化の受け入れ方が違っていたのでしょう、水田稲作農耕が比較的容易だった地域では地域勢力拡大の技術の一つとして積極的に受け入れられ、 難しい寒冷地域では、満州から南下してきたのと同様に撤退したのではないかと推測出来ます。
とは言っても、子細な分類が大好きな日本の研究者が「多様」と考えても、恐らくそれは海外の研究者から見れば偏差の範囲内でしかないのかもしれません。
現代は寒冷地対策された改良イネが作りだされ北海道や東北、新潟などの寒冷地は今やうまいコメの大産地です。
弥生文化は添付の記事の説のように利根川以北には波及しなかったのではなく、現代まで時間がかかっただけなのです。 つまり弥生文化は今まで続いていると考えればどうってことないのです。北海道まで波及したのですよ。2000年以上かかってですが。
弥生時代以降は、武装侵攻集団だったY-DNA「O3」プロト漢民族が日本列島を蹂躙し搾取しまくっている約1500年と考えれば、奈良時代や平安時代、 鎌倉・室町・徳川・など武家政権の時代は征服者の歴史で、明治以降も今だ武家政権が形を変えて続いています。
見方を変えると、縄文文化と、後から来て縄文文化と融合した弥生文化という、日本列島先住民の生活・生産形態に根差した時代文化は実は現代まで続いており、 現代はまだ弥生文化のさ中、後期弥生時代と考えられるのです。
第二次大戦後の農地解放後、武家の子孫のエスタブリッシュメント階級と農民や漁民等の先住民との融合は一気に進み、今は新しい日本人が増え、日本全国での稲作も完成し、 弥生時代はやっと最晩期になってきたと考えられます。
次に待ち受けているのは恐らくグローバルな変化でしょう。島国の中だけで動いてきた先住民と征服者の文化が、もっと違う遺伝子との融合で新しい時代に入るのではないかと考えられます。 またそうなるのが歴史の必然のように思われますが。
rev.2 呉系長江人の行方考
長江文明人は黄河文明に追われて四散する段階で既に越系の「O2a」と呉系の「O2b」に分化していたのではないかと思われます。 欧米の研究者は「O2a」は満州辺りで「O2b」に分化したのではないかと推測していますが、満州辺りで分化する理由がいまいち想像できなかったのですが、 長江にいた1万年にもなる長江文明の長期間の間に既に越系「O2a」と呉系「O2b」に分化していたと考えるなら、呉と越が対抗していた理由がわかります。異族集団間の抗争になるからです。 漢民族から見れば同じなのでしょうが。そして我々弥生人の子孫は呉の子孫でもあるはずなのです。
何故、「O2a」から「O2b」が分化し北へ向かったのかは、ただ推測するしかありませんが、当時の中華大陸の遺伝子構成を推測すると、 恐らく「O2a」と「O3」の交配で「O2b」が分化したとした考えるのが最も自然です。だから江南系だったはずの「O2」に河北の遺伝子が入り込むことによって、 北へ移動する抵抗が少なくなったのではないかと考えられます。しかし北には水田稲作農耕の適地が見つからず満州辺りから韓半島に南下し、 そこで恐らく伽耶系稲作集団として定着し、馬韓、弁韓、辰韓の民衆レベルは長江系と考えられます。百済の民衆もやはり長江系と考えられます。 つまり韓半島のY-DNA「O2b」は呉系長江文明人の子孫と考えるのが妥当でしょう。
恐らく弥生時代の韓半島南部と九州は全く同じ呉系長江文明人文化圏だったと考えられます。韓半島でY-DNA「O2b」は小亜型に分化していないため、 その後の支配遺伝子の「O3」は土着先住民だった「O2b」と棲み分けて、交配をしなかったようです。当然百済の支配層の「O3」漢民族もしかりです。
韓半島には数%のY-DNA「D1」が残っていますが、スンダランド→東シナ海-黄海ランドと北上してきた「D」遺伝子集団がユーラシア大陸内陸の中華平原に入り込む際に留まった集団の子孫なのか、 時代が下がってモンゴル帝国がチベットから徴用した軍隊で、元寇時に留まった集団なのか、チベット仏教の関係者の名残なのか等々、まだ全く想像がつきません。 しかし2-3%という数字は小さくはありません。北朝鮮の調査結果があるともう少し推測しやすくなるのですが。牽強付会すると、韓半島の姜性は基本的にはY-DNA「D1」原型の羌族の子孫のはずなので、 極東ユーラシア大陸最初の先住民と言われるY-DNA「D1」の中で、膨張する長江系、黄河系に押し出され周辺部だった韓半島に押し込まれた集団がいたと考えるのが最も自然です。 あえて言えば羌族系でしょう。
そして世界最先端の水田稲作農耕技術を開発した技術屋集団だったY-DNA「O2b」の一部は更にもっと水稲に適した土地を求めて海峡を渡り南下し日本列島に入ったものと考えられます。 南琉球のY-DNA遺伝子構成はGlobal論文では全く報告されていませんが、ローカル論文ではY-DNA「O2b」が67%らしいのです、どうしても暖かい南に戻りたかった一部グループがいたようですね。
しばらく前までは日本列島の弥生文化は百越族のもたらした文化と考えていたのですが、日本列島には越音がまだ見つかっておらず、 それどころか日本列島は呉音の土地であることが不思議だったのです。南方に逃げた越系長江人に対し、北方に逃げた長江集団が呉系だったとすれば全て氷解します。 日本列島にはこの時に漢字を受け入れる準備が全て整っていて、後に仏教と共に伝来した漢字を見た呉系の弥生人集団は呉音で発音したはずです。
しかし越系が南方に逃げたのは、ヴェトナム等後世の越系国家の興隆結果からわかるのですが、呉系長江人が興した名のある国は全く残っていません。これは不思議でした。 当ガラパゴス史観では、韓半島に30%ものY-DNA「O2b」が今でも残っている以上、同じ30%の日本列島と関連性のある歴史を見ると韓半島の3韓や伽耶系の集団、 そして百済の民衆(支配層はまちがいなY-DNA「O3」の漢民族でしょう)は長江系と考えています。
しかし今でもわからないのは楚系です。楚とは一体何?長江文明遺伝子で残っているのはY-DNA「O1」です。日本列島にも「O1a」は1.5%ほど存在し、1.6%の越系「O2a」と同程度です。 (「O2b」+「O2b1」は29.6%もあり、これだけでも日本の弥生文化集団は呉系長江人の子孫であることがわかります。漢字の読みに呉音があるのは極めて自然のことです。
楚は日本人から見ても呉越より神秘的に見えます。果たして「O1」なのでしょうか?興味がありますね。 では、呉系長江人のY-DNA「O2b」弥生人ははたして呉の太白の子孫か?
遺伝子的には太白と関係があってもおかしくはありません。とは言っても、太白個人の子孫と言うわけでは決してありませんが....。
当ガラパゴス史観は、Y-DNA「O2b」は「O2a」と「O3」の交配で分化したと考えています。当時の長江河口~下流~中流域で「O1」、「O2」以外の遺伝子は新参者の「O3」しかありません。「D1」は既に辺境地域に押し出され、長江の上流域以外には多くは居住していなかったはずです。むしろ「O1」→「O2」への分化が古代シーラカンス遺伝子の「D1」との交配が大きな要因ではなかったかと考えています。「O2」→「O3」への分化も同様の可能性があります。「C3」の可能性もゼロではありませんが、「O2a」を「O2b」に分化させるには頻度的に低く過ぎます。
ガラパゴス史観の立場は、「O2a」と「O2b」は長江流域にいる間に既に分化していた、というものです。しかしもし欧米の研究者が言うように満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化したのが正しいとすると、要因は現在も韓半島に数%存在する「D1」との交配が唯一可能性があるのです。Y-DNa「D1」は中華大陸最初の先住集団として広く拡散しましたが、先ず長江文明に、次いで黄河分明に押し出され四川省やチベット高原、そして韓半島に押し込まれた訳ですが、もし韓半島ではなく満州辺りに「D1」が押し出されていたとすると、満州辺りで「O2a」と再度遭遇してもおかしくはありません。この可能性の難点は、現在満洲や韓半島に残っている「D1」の頻度が少なすぎることです。遺伝子の分化を引き起こすなら日本列島ぐらいの「D1」頻度が必要と思います。という訳で今のガラパゴス史観の立場は長江文明の1万年の間に越系「O2a」は呉系「O2b」に分化していた、と言うことで良いと思います。
現在の「O3」の子亜型は以前の記事でご紹介ましたように、黄河文明系直系の「O3a1」と長江文明との交配系の「O3a2」がありますが、頻度的には「O3a2」の方が多いのです。「O3a」の亜型が変化するくらい異遺伝子間の交配があったなら当然「O2a」も「O2a1」と「O2a2」に分化しているはずです。研究者は現在「O2a2」と分類せずに、もっとインパクトがある「O2b」に分類しました。変異の大きさが「a1」→「a2」の子々亜型の変化レベルよりやや大きいためもありますが、「O2b」の現存民族が江南・華南には全くなく、何故か韓民族(30%)・日本民族(29%)・満州族(14%)という北の集団に見事に偏っていることが子亜型の分類に大きく影響していると思われます。
しかし他の東南アジア諸民族に「O2b」が全く存在しないわけではありません。越系Y-DNA「O2a」地域の調査で、見つかる程度の誤差範囲以上の0.数%程度の頻度が必ずあります。越が敗れて南遷する際に、過去の呉越の抗争で奴隷にした呉兵や越に組み込まれた旧呉民は相当いるはずですが、恐らく越民に混じって南遷したものと思われます。他の可能性は大日本帝国時代の落しだね説も充分可能ですが、それだけでは頻度が高すぎます。むしろ山田長政に代表される室町時代~戦国時代に東南アジアで活躍した和僑の子孫と見る方が可能性はかなり高いのです。日本人和僑は当時相当地元に根付き繁栄したようなのです。
恐らく「O2a」遺伝子集団の中で「O3」と密に交配をしていた特定の集団が知られていたのだと推測できます。それが呉と呼ばれた集団で、太白伝説を生んだものと考えられます。もし太白説が史実に基づくとしても、当然ですが太白・虞仲2人だけが来たわけではなく、一族郎党を引き連れてきたはずです。恐らく断続的に「O3」が春秋時代の戦火を逃れて呉の地域に流れてきていたものと思われます。とにかく「O2a」→「O2b」に分化するほどの「O3」が流れ込んできたはずです。
呉越が抗争を繰り返した原因が「O3」異民族との距離感・交配実績だとすると近親憎悪のような骨肉の争い関係になってもおかしくありません。
日本列島にY-DNA「O1a」と「O2a」が存在する理由も、上記と考えれば理解できます。呉にとりこまれた旧越民も相当いたはずです。呉系の北遷時に呉民に混じってきたのでしょう。
では楚は?まだわかりません!
Y-DNA「O1a」は?これもまだわかりません!
以上
3-17. 弥生水田稲作農耕遺伝子Y-DNA「O2b」,「O2b1」
rev.1 縄文に続くもう一つの日本人の心の故郷は水田稲作農耕の弥生風土です。
縄文時代と同じ14000年前頃に始まった長江文明は、共工を祖先神とするY-DNA「D1」の羌族に取って代わって揚子江(長江)周辺の文明となったのです。 狩猟採集+牧畜的な色彩の強い羌族に対し、長江文明人は穀類の栽培を行い定住性が強かったのでしょう。
最も下流と言うより長江河口にいたらしいY-DNA「O1a」が稲作農耕をおこなっていたかどうかは定かではないようですが、 縄文後期の日本列島に熱帯ジャポニカ種の稲作を持ち込んだのはY-DNA「O2b」より一足先に中華大陸を追い出され台湾、海南島やオセアニアに拡がったY-DNA「O1a」かもしれません。
長江文明も1万年以上続き、日本列島の縄文時代とほぼ同じ時期に繁栄していました。だから縄文時代が終わらないと弥生時代が始まらなかったのです。 もし長江文明の終焉がもっと早かったなら、弥生時代ももっと早く始まり、縄文文化と共存した可能性は大なのです。
長江文明はメソポタミア文明などよりも早く農耕文化を持っていたと考えられています。16000年前頃の遺跡から既に稲モミが発見され、 14000年前頃日本列島で縄文文化が始まった頃の遺跡から既に栽培された稲が見つかっているほど稲作は古い歴史を持っているのです。
7000年~9000年前ごろには水稲栽培が始まったと考えられ、6500年前頃には既に大規模農耕が始まっていたそうです。 このように長江文明人は世界で最も進んだ最先端の農耕技術を持つ農耕集団だったのですが、結局、戦闘好きの野蛮な黄河文明集団に中華大陸からほとんど追い出されてしまったのです。 残った集団は現代の今でも少数民族として羌族などと同様、中国の国勢力の向上に全く寄与できていません。極めて残念です。
世界でも冠たる水田稲作の先端農耕技術は本家中国大陸では発展せず、逃げ込んだ先の日本列島で華開き、水田稲作農耕民は少数民族化せず、 日本文化と日本の国勢力の向上に大きな寄与をし続けています。結局逃げ込んだ先の環境の違いによって、同じ遺伝子集団でもその後大きな発展の違いになってしまったのです。
長江文明の中心は長江下流域に拡がっていたとされるY-DNA「O2」遺伝子集団です。残念ながら「O3」の黄河文明集団に中国大陸から追い出され大部分は南に逃げ、 江南から東南アジアそしてニコバル諸島へ、更に西に向かいインド亜大陸や南インドのドラヴィダ人と交配し稲作を広めて行きました。
特に学習院大学の某教授が学説を表明し、一時ブームになったドラヴィダ人の中のタミール語族のタミール語が日本語の祖先であるという説はとても面白いものでしたが、 残念ながら全くの誤りでした。ドラヴィダ人のY-DNA遺伝子の調査結果は見事に明快でなんとY-DNA「O2a」が14%も交配しているのです。中華大陸を追われたY-DNA「O2a」集団は結局、 稲作の適した土地を求めて南インドまで移住してきたのです。そしてドラヴィダ人と交配をしながら南インドに根を下ろしたのです。このため特に水田稲作関連の単語の語源はアジア共通なのです。 Y-DNA「O2」の単語なのです。
黄河文明「O3」に追われた「O2」集団の大部分は水田稲作に適した都市を求めて南に逃げ、遺伝子は「O2a」に分化しましたが、 一方やむを得ず稲作に適さない北に逃げた集団も一部いたのです
欧米の研究者は北へ逃げた集団は満州辺りで「O2b」に分化したと考えています。満州族のY-DNA「O1a」は約5%、「O2a」は約3%、「O2b」は18%もあり、 長江文明系遺伝子は26%もあるのですが、清王朝時代に統治部族としてすっかり漢化したため「O3」は44%もあり既に漢民族化したと言ってもよいほどです。 しかしY-DNA「C3c」も22%もあるためツングース的な色彩もまだまだ残しており、長江人、漢族とツングース族の融合部族となったのです。
しかし満州の気候は水田稲作に適しているとは言い難く、「O2b」集団は更に南下して韓半島南部に入ったのです。今でも韓半島南部は日本列島に似た農村風景がありますが、 当然同じ長江文明人の子孫の「Y-DNA「O2b」が今でも30%も根付いていると土地だからです。この同じ長江文明人の農耕文化の子孫であることが日本人と韓国人の極めて近いところなのです。 ところが稲作に適さなかった北部は恐らくY-DNA「O2b」はかなり少ないと思います。つまり朝鮮半島は必ずしも遺伝子的に一体ではないのです。
韓半島南部にあったと考えられている古代国家の遺伝子はY-DNA「O2b」と考えて間違いないでしょう。特に3韓のどれかは長江文明の子孫国家と思われます。
しかし「韓半島南部でもまだ充分な水田稲作農耕の環境ではなかったようです。このためY-DNA「O2b」はボートピープルとして日本列島に渡りやっと最適な水田稲作の土地を見つけたのです。 ここで先住民だった縄文系のY-DNA「D2」と出会った「O2b」は、好戦的ではない「D2」と棲み分けながら緩やかに交配し「O2b1a」に分化しようです。 勿論「O2b」のまま遺伝子を守った集団もかなりあります。一方「D2」も更に小亜型に分化しました。 沿岸漁労遺伝子のY-DNA「C1」と山村系ハンター遺伝子の「C3a」は住む場所が「O2b」とはかなり異なるためあまり交配はなかったと考えられます。
では世界に冠たる水田稲作農耕を興したY-DNA「O2a」長江文明人はどんな人々だったのでしょうか? アンダマン諸島に縄文人の祖形の直系子孫のY-DNA「D*」100%の遺伝子集団Onge族やJarawa族が現存しているように、 同じ列島弧上にあるニコバル諸島には弥生人の祖形=長江文明人の直系の子孫でY-DNA「O2a」100%のShompen族が現存しています。勿論オーストロアジア語族です。
Shompen族のやや昔の写真です。
真ん中の人は誰かに面影が似ていますね!そーです!若い頃の近藤正臣です。或いはむくんだキムタクかなぁ!?左側と右側の人も赤道直下なので肌はかなり濃いのですが、 薄まれば日本を歩いていてもわからないでしょう。
Y-DNA「O」は欧米遺伝子のY-DNA「R」と同じ親遺伝子「K」から分化した第2世代なので、縄文系「D2」ののようなジャガイモ顔のダンゴ鼻ではなく、 「C」系のような彫が深くややいかつい顔立ちでもなく、鼻筋は通っていますが彫はそんなに深くなく、顎が細い顔立ちをしています。 穀類が主食だったのでガッシリした顎は必要なく小さくなったのです。
余談ですが縄文系の片親の遺伝で縄文人の歯並びを持った人が、もう一人の方親の弥生系の小さな顎を持つと、がっしりした歯が狭い顎内に配置するため、 どうしても前の歯は押し出され更に前へ出てしまうのです。下顎自身が前に出てしまう場合も多いのです。昔は経験でそういうものだと知っていましたが、 今ではそれが縄文系と弥生系の交配の結果であるとはっきりわかるところまで遺伝子の研究は進んできました。
日本人の中に占める長江文明系遺伝子Y-DNA「O1a」+「O2a」+「O2b」+「O2b1」の頻度は約32%です。韓民族に占める長江文明系遺伝子の頻度は若干高く約37%ですが、 お互い1/3は同じ遺伝子の子孫なのです。これがお互い感じる「近さ」の理由です。しかし前述のように日本人の約48%と半数を占めるY-DNA「D2」、 「C1」と「C3a」が韓半島で完全に欠落していることが両民族の決定的な違い=遠さになっているのです。韓半島には1%程度のY-DNA「D1」がいますが、 男性人口の約半分が全く異なる遺伝子だと言うことはかなり大きく、民族が全く異なると言うこととほぼ同じです
問題は「O3」ですが、それは次に.......。
このように日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、 縄文語を豊かなものにしたのです。日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。 弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
以上
(以上、引用終わり)
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参考にしたいのが、弥生遺伝子『Y-DNA「O」(O1,O2,O3)』の調査結果です.
以下参照、参考ください.
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(以下転載)
日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-7.htm
1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3) rev.2
ヨーロッパ遺伝子度調査で折角Globalで報告された論文がかなり入手できたので、おまけに極東遺伝子であるY-DNA「O」の頻度も再調査しました。
長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
越系と思われるY-DNA「O2a」、
呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び
黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。
ただし、黄河系直系のY-DNA「O3a1」と黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」は
データが不十分なので見送りました。
日本はGlobalで発表された12論文から試算した頻度と、県別のデータがあった5論文から県別の人口比率を頻度試算に盛り込んだ人口比率補正した頻度を合わせてリスト化しました。
以上
1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O2a」rev.2
●長江文明系の越系と思われるY-DNA「O2a」は越が滅んだ際に江南に留まり少数民族化した集団もあれば、更に南下しインド亜大陸にまで逃げた集団も相当多くいます。 ドラヴィダ民族の中のタミール系Asur地域民はなんと64%が越系「O2a」遺伝子になっています。
この「O2a」がタミール人に水田稲作農耕系の文化と語彙を持ち込んだため、 弥生系日本語彙と出自を同じくする長江農耕民系の単語がタミール語に多く残り、大野教授が日本語の祖先はタミール語と誤解する原因になりました。 遺伝子調査による民族の逃避・移動がわかった現在では、残念ながらタミール語祖先説は成り立ちません、 同様に東北アジア系騎馬民族(Y-DNA「C3c」)も日本列島には入ってきてはいません。
言語的にはオーストロアジア語族に属する集団であるようです。
このリストで非常に重要なことは「タイ」が入っていないことです。タイ族はY-DNA「O2*」を58%も含む、極東でも特異的な集団なのですが、 この「O2*」が果たして長江文明に属するのかどうか、わかってはいません。一般的にタイ・カダイ語族として分類されていますが、 「楚」や「呉越」と同じ頃に江南である程度の勢力を持ち、呉越以後に長江流域から漢族に追われ南下した集団があるはずなのですが、候補はまだ見つかっていません。 タイ族は6-7世紀頃に南下したのではないだろうかと考えられているようです。想像をたくましくすると閔(ビン:ただし門構えの中は虫)かもしれませんが、わかりません。 言えることは現在の言語分布から見て先により新しい遺伝子であるオーストロアジア語族Y-DNA「O2a」が居住していたところに、 後からより古い遺伝子集団であるタイ・カダイ語族Y-DNA「O2*」が南下してきたようだということです。
一大勢力となっていた越のオーストロアジア語族Y-DNA「O2a」が黄河系漢族Y-DNA「O3」に負けて中華大陸を追い出され 先に南下して居住をしていたところに、それほどの勢力を持っていなかった地域集団でしかなかった古い遺伝子集団のタイ・カダイ語族Y-DNA「O2*」が漢族の膨張によって押し出され、 後から南下してきたと考えると辻褄が合いますね。そして先住のオーストロアジア語族を押し出し、インド亜大陸まで移動させてしまった、 と考えるとインド東部やドラヴィダ族内にY-DNA「O2a」遺伝子の稲作農耕民がかなりの頻度で混在していることの説明も付きます。
以上
1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O2b」,「O2b1」rev.2
●長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民や奴隷を交えて、南下した越とは反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、 稲作適地を求めて南下し韓半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。韓民族の30%を占めるほど朝鮮半島の農民層として定住・定着したようです。 「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の朝鮮半島出先機関の圧政から逃れるためか南下しボートピープルとして日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。 この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも朝鮮半島とおなじく30%の呉系遺伝子頻度を現在持っています。 「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。
ただしこの満州族に見られるY-DNA「O2b」のオリジンは、1744年編纂の「八旗満州氏族通譜」で満州族中に43姓の朝鮮族姓が既に記載されているほど満州族中に深く浸透している、 朝鮮族の伝えてきたY-DNA「O2b」である可能性が極めて高いため、長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」を今日まで維持する民族は世界で、 朝鮮族(韓族)と弥生系日本民族のみと考えて良いようです。弥生時代の朝鮮半島南部と西日本は全く同じ長江系水田稲作農耕文化圏を形成していた可能性が極めて高いでしょう。
この両民族の30%を占める呉系度が両国の近さの証明であり、縄文遺伝子を持たない韓国が一方で遠い国の証明なのです。 しかしどちらも支配層は見事に黄河系「O3」で同じなのです。ここも近さの証明となります。つまり日本人の50%強は韓族(朝鮮族)と同じ出自を持つ同根なのです。 そして漢民族とも同根なのです。残念ながら! なんでこんなに文化が違うのだろう?約50%弱を占める基層の縄文文化のあることが日本を中韓両国とは全く異なる風土を育んでいるのです。 3.11でも称賛された日本人の国民性は漢民族や韓民族にはないY-DNA「D2」「C1」「C3a」(及びmtDNA「M」)縄文人が持つどちらかと言うと古代的な民族性なのです。
以上
1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O3」rev.2
●現在世界の覇権を狙っているのがY-DNA「O3」です。東ユーラシアからオセアニアまで広く進出しています。ニューギニアのY-DNA「C2」92%のDani 族の残り8%は「O3」です。 なんでこんなところにまで進出したのか?なにかメリットがあったのか?拉致されたのか?不思議です。
ともかく純血を守ろうとした「O3」部族は残念ながら少数民族化してしまいましたが、交配をいとわなかった集団は漢族系として現在アジア諸国の支配層として 日本を含むアジア各国に君臨しています。大和朝廷族と武士団族は朝鮮半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、 狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。 それを認めてきた縄文・弥生交配集団の何とお人好しなことか!?
第二次大戦後に一気に縄文・弥生系と侵略者「O3」系との交配が進んだため、現在の日本人は階級意識が薄れていますが、 長い間「O3」は支配集団として、身分が違うと称して、交配を拒んできたのです。支配欲の塊の嫌なやつらですが、支配するプロなのです。 だからこそ西欧文明の覇者のY-DNA「R1b」と渡り合うことができるのです。
以上
(以上転載終わり)
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やはり、日本人は「D」の含有率が圧倒的に大きく、弥生人要素代表の「O」の含有率、日本人は、アジアの中でも比率が低いんですね!なるほど!
どうやら日本列島以外、アジア大陸はほとんど「O」に偏っているわけですね!
日本人だけが、特にアイヌと沖縄では弥生人因子「O」が最も少なく、縄文人因子「D」がアジアで世界で一番多いんですね、再確認できました.
ところで、これで何をいいたいか* と言うと、
この違いがさまざまな歴史という差異を生んできました.文化文明の類似から~相違、そして、「理解できるorできない」
そして体の違いは重心の高低の違い、例えば縄文人は重心が低くグラウンディングが自然に行われ、弥生人は重心が高い分、動作が速く量をこなすのに適し、祈りをすること崇拝することによって重心を下げバランスをとるグラウンディングするということにもとづく上下社会体系が成立していると推察される.これによって「拝む」というシステムがおのずと出来上がる/傾向にあると考えられる.尚、
縄文人は重心が低いためグラウンディングが常に行われ継続されているため、大地・自然といった大心霊、果ては宇宙、といったことが意識にかけられていると推察する.敬れるのは大自然を基にして、人間や動植物であり、先祖崇拝はごく自然なこととして、大自然への敬意から生まれたものであり、その意識はつねに静かな大自然を模したものであろう.
この両者の歴史を観じたときに、体のつくりやDNAなどの違いから、さまざまに文化と王朝を形成するも、結局は根幹は戦も同じであったと言うことの意から、
いかにわれわれ人類が体とDNAに踊らされてきたかがわかる.また、あるいは、ストレスに弱い頭骨なら、思考も持続せず、いかに意識で体を支配できるかが問われる.
あるいは、お金への長らくの支配から、権威と名声、地位や優位な立場に惹かれるものたちも、体のみならず、文化的な思考に動かされている.
虐待の多かった歴史の後の子孫たちは、その苦痛から顔にストレスを耐えるような苦渋が現れている.
これらの傷は、DNAにも深く刻まれているだろうが、それをしたのは過去の歴史の人たちで、今現在に生きる、隣近所にいる人ではないが、
虐待を加えやすい加害側のDNA要素も傷として残されているに違いない.
ひとを殺した罪悪感が、麻痺して、それでも魂の声は、「これはしてはならない」といい、
それでひとは良心と社会で生んだストレスと、体の持つDNAの癖に苦しむ.
今私たちがしなければいけないことは、
DNAを超えていく、と云うことで、自身の体を自身の意識で支配するということでしょう.
たとえば、縄文人でもなく、弥生人でもないが、
縄文人のいいところは弥生人が理解できなかったよいところは、
すでにじぶんにある、と.
そしてひとを殺めた、あやめても静止させなかった全体責任である欠点も、これは人類の社会が生んだ素養で、
人本来のものではない、と.
そして縄文的な情けも、大自然の中から溢れてくる、自分自身が大自然なのだから、「情けがわかる」と.
そのようにして、お金や目に見えることが尺度ではなく広さではないと言うことを知る時なのでしょう.
そして、自分の体は「自分の意識で支配し」、体やDNAの癖に運転させないようにすることです.
そうすることで縄文でも弥生でもない、しかしすべて備わっているからノーマルな自分でコントロール/支配するということが、乗り物をいつしか越えていくのだと、今の時代を捉えた時に感じます.
縄文にとっては、共有されない感性や意思疎通・意思伝達方法が、長い間、同じ民族間でしかやりとりができず、いつも兄のような心持だったであろう、弟や妹は自分の感覚を持っていない、足りていない、という感じであったのです.
ですから、自ら温かく見守る役に徹したのです.
ですが、悲しいことに、云わなければ、通じなければ、どこまでも奪われ、掘られ、盗まれてもなお、
他の人々は日本人のほかに能力への無理解から、「怪物」扱いや、「野蛮」扱いなど、
社会に併合できないような枠組みをつくりそのなかに置いたのです.
先住民の中に、生きている価値の無い人間などいません.これは人間が判断することではありません.
多くの、支配された人間は異常に満ち、悪意と正義で絶ちました.
そのことの意味は、人間が人間を支配すると言うことにあったのです.
わたしたちは謙虚に成らなければならないのです、大自然に、岩に、月に、あらゆる造形に.そのなかからわたしたちは生まれたのです、ひとがひとを作ったのではありません、
人が作ったのは文化と文明です.それだけです.
ひとには刻まれています、歴史が.その腕に、からだに.
あなたは身体に動かされるんですか、あなたが動
かすのですか.
今日はここまで?
久保田利伸 Telephoto